赤旗配布の高裁判決に思う なぜ公務員は政治活動を制限されるのか(産経新聞)

 【安藤慶太が斬る】

 先週26日に東京高裁で少し意外な判決が出た。元社会保険庁職員が衆院選を控えた平成15年、共産党機関紙「しんぶん赤旗」を都内のマンションで配布したとして国家公務員法違反に問われた事件について、同高裁が、1審の有罪判決を破棄し、逆転無罪を言い渡したのだ。

 最近、裁判を眺めていると「?」という判決にしばしば出くわす。この判決に限った話ではない。裁判という場は民事刑事問わず、左翼系市民団体の闘争の舞台になっている。裁判を起こす権利は国民に与えられているのだが、彼らはそれを最大限に使う。何度負けても類似構造の訴訟を繰り返し起こし、世論の取り込みを図る。それが繰り返されるうちに、聞き分けのよい裁判官が現れ、今までにない判決を書く。その裁判官は耳目をひき、メディアの拍手喝采を浴びるという光景が繰り返されるのである。

 ■拍手喝采

 今回の事件をメディアはどう報じたか。各紙の社説などの見出しで拾ってみてみよう。

 「『赤旗』配布無罪−時代に沿う当然の判断だ」(3月30日朝日新聞)

 「公務員ビラ無罪 注目すべき問題提起だ」(3月30日毎日新聞)

 「ビラ配布無罪 言論封殺の捜査にクギ」(3月31日中日新聞)

 「政党紙配布無罪 時代の変化に沿う判断だ」(3月31日西日本新聞)

 「公務員と政治 むやみな規制許されぬ」(北海道新聞3月30日)

 産経は判決に疑義を呈したが他紙はざっとこんな感じの拍手喝采ぶりである。事件は微罪である、公務員の政治活動を禁じる規定自体が時代に反する、時代は変わった、むやみな規制は許されないといった讃辞が並んでいるのだが、果たしてそれで良いのだろうか。

 ■公務員は守られている

 私自身が以前、取材した事件の話をする。かつて東京都足立区内の中学校に通っていた女子生徒の母親が、娘の習っている社会科の授業内容に疑問を抱き、教育委員会に照会したことがあった。そのことを知ったこの社会科教師はその後の授業でこの母親を中傷するプリントを配布した。教師の心ない行為にショックを受けた女子生徒はその後、不登校に陥り、母親がこの教師を相手取って名誉棄損訴訟を起こした。

 1審判決はこの教師に名誉棄損が成立し、賠償命令が出た。ところが2審東京高裁は国家賠償法を適用、事実審理なしで、この母親の訴えを退けたのだった。

 公務員の行為が招いた損害の賠償責任は任命権者が負うというのが国家賠償法の考えだ。つまりこの事件の場合、任命権者は東京都になる。賠償責任を負うのであればそれは東京都が負うべきであって、この教師個人に負わすことはできない、端的に言えば、母親は請求先を間違えている、訴えるなら東京都を訴えなさいということを意味する判決だったのだ。

 しかし、母親には東京都に対して被害感情が全くなかった。請求が認められなかった母親が無念そうに漏らした言葉が私には今も忘れられない。それは「公務員って守られているんですね」というものだった。

 ■なぜ公務員は守られるのか

 裁判所が出すその後の判決などを見ると、例えば国立大学での大学教授のセクハラ裁判などで公務員本人に個人賠償を負わせる判決なども出されている。この事件で痛感したのと同様、何もかも任命権者に賠償責任があるという論理も理不尽な場合があるに違いない。

 それはともかく、公務員は立場的に身分が守られていることは確かである。それは、管理職であれ一般職員であれ、公務員は公のために奉仕するという義務を一様に負っていて、その裏返しに身分を守る“特権”が与えられているのだろうと理解する。だから彼らは自らの職務の公益性を踏まえながら、服務規定に従って職務に全力であたらなければならないし、それは公務員の地位や職級にかかわらない話だと考える。

 教育公務員を例に考えてると、「先生」という使命は、授業時間中、勤務時間中だけに負えばいいというものではない。先生が年休を取っていようが、街で生徒とすれ違おうが、極端にいえば、卒業した生徒の一生に渡って「先生」であり続けるのである。

 かつて、学校管理職がテレクラの経営に参画していたとして刑事事件になったことがあった。裁判官でも似たような事件があったような気がする。教師も裁判官も人間である以上、金銭欲もあれば、性欲もある。過ちも失敗もあるだろう。そのことは否定はしない。だが、公務員には、昼夜、公私の別なく自分の与えられた使命を自覚していて欲しいと国民は願っているはずである。

 仮にこの学校管理職が休日の私的な出来事としてテレクラ経営に関わっていたらどうか。世の中が許すはずはないだろう。休日や勤務時間外に飲酒運転をしたのが公務員なら、それは一般国民のそれよりも厳しく指弾される。これらはすべて同じ論理で貫かれている。繰り返しになるが、公務員はそれぞれの立場ごとに崇高な使命を公私分け隔てなく負っているからであって身を律していかなければならないことが期待されているからだと理解している。

 公務員の政治活動がなぜ厳しく制限されているか。それは公務員の政治活動によって行政の中立性を脅かす恐れがあるからであり、国民に行政への疑念を生じさせるからだろう。

 今回の高裁判決は、公務員の政治活動を制限した国家公務員法そのものについてはこれを合憲と判断したが、(1)被告は管理職ではない(2)休日の私的な行為で、公務員であることを明らかにしていない−などを理由に、機関紙を郵便受けに配った行為まで罰するのは表現の自由を保障した憲法に違反すると判断した。

 判決はこう述べている。

「本件配布行為は、その態様などや国民の法意識に照らせば、本法および本規制の規制目的である国の行政の中立的運営およびそれに対する国民の信頼の確保という保護法益を抽象的にも侵害するものとは常識的に考えられず…」

 まずこれが私には甘い認識だと思えてならない。たとえ、結果として素性を悟られずに、赤旗をマンションに配布し終えたとしても、それは誰が見ているか、わからないではないか。見つからなかったから許される話でないのは当然だが、見つかった結果、直ちに行政の中立的運営を侵害する結果を招かなかったから、許される話でもない。「何かこのごろ、赤旗が配られているでしょ、あれ公務員の人が配っているらしいよ」といった小さな風評が立つこと自体、行政の中立性や信頼を損なう恐れの十分にある行為と考える。

 ■赤旗配布は「表現」か?

 赤旗の配布を表現の自由と考える判断についても述べたい。まず初めに表現の自由が大事な考えだと断っておく。

 そのうえで、ではこの公務員が赤旗をお忍び同然でこっそりポスティングする行為が果たして「表現活動」なのか。百歩譲ってこれが公務員が政治的意見を表明するという「表現活動」だとしても、本人は身分を隠してやっていると判決は一方で認めている。ならば、それが果たしてどれほどの「表現活動」なのか私は正直理解できない。選挙権や被選挙権を取り上げてしまうような理不尽をこの公務員に背負わせたならそれはひどい話だが、この手の行為に「表現の自由」を免罪符に持ち出すのはいささか、「?」である。これでは何でも許されてしまうのではなかろうか。

 ■冷戦は終わったのか

 政治的行為を制限している是非を、冷戦の崩壊などで軽々に判断すべき問題でもない。

 判決はこう述べている。

 「そして国民の法意識は、時代の進展や政治的、社会的状況の変動によって変容してくるものである。猿払事件判決当時は国際的には冷戦構造下にあり、世界的な思想対立を背景として、わが国の基本的な政治体制や経済体制のあり方についても社会的意見の不一致がみられ、様々な事象にイデオロギー対立的な視点を持ち込み、一部には暴力的ないし非合法的な手段を用いて自己の見解の実現を図る勢力が存在するなど、社会情勢が不安定な状況にあった」

 「国民はいまだ戦前からの意識をひきずり、公務員すなわち『官』をことさらに『お上』視して『官』を『民』よりも上にとらえ、…しかし、猿払事件判決以降、今日までわが国において、民主主義はより成熟して、着実に根付き…国際的にも冷戦は終息し、左右のイデオロギー対立という状況も相当程度、落ち着いたものとなった。加えて、政治的、経済的、社会的なあらゆる場面においてグローバル化がすすみ、何事も世界標準といった視点から見る必要がある時代となってきていることも国民は強く認識している」

 本当にそうだろうか。

 社会保険庁に限らず、官庁には、ありとあらゆる個人情報が転がっているはずである。職員が特定の政党に所属していたとして、そうした情報に日常的に接することができる立場だとして、たとえば秘密裏に党派的な利害や党の指示で情報が持ち出されたらどうなるだろう。それが明るみに出たら、国民の行政への信用を揺るがしかねない一大事だろう。

 公務員は政党への勧誘などを制限されているが自分自身の加入まで禁じられてはいない。思想信条の自由があるからである。加入まで禁じることができないならば、職務上の義務としてそうしたことを公にしたり、公になりうる行為は厳に慎むべきである。みだりに知られると、行政の中立性に疑念を抱かれてしまうからだ。

 裁判官が仮に共産党員だとわかってしまったら、その裁判官の裁判を受けたくない、公正な裁判ではないと言いたい被告人はいるはずだし、それは自民党員でも創価学会信者でもオウム真理教信者でも同様に起こりうる話だ。行政窓口の役人が実は民主党員だったら「自分の個人情報は大丈夫か」「手続きを公正に進めてくれるか」などと疑念を抱く住民だっているだろう。やはり、政治的行為を制限されることに合理性はある。最近の事案を見れば一目瞭然のように、一方で刑事罰を負わさなければ、こうした行政の中立性が保てないほど、ひどい実態だと考えさせられる場面もある。

 この判決はそうしたことを「時代」というきわめて軽い言葉で片づけていないだろうか。特に冷戦の終息などに伴って国民の法意識や公務に対する意識が変わり、公務員の政治的行為にも許容的になってきたとしている点は、合点がいかない点である。

 私には冷戦が終わっても、北朝鮮や中国など周辺国の悪意はむしろ強まっていると思えてならないし、最近のトヨタのリコール問題や、次々と世界標準として日本に要求が突きつけられる光景を眺めていると、米国の悪意を感じることすらある。冷戦が終わったから日本国内の冷戦構造が終わったか。そんなことはない。日教組は相変わらずだし、至る所に55年体制は残ったままだ。米国の持ち込んだ世界標準なるものが日本人や日本国を幸せにしたかどうかは国益という観点でこれからしっかりと考えていかなければならない課題だと思っている。

 ■虚構にお墨付きを与える裁判所

 55年体制の構図が今も最もだらしなく残る国家機関、そのひとつが裁判所だと思っている。弁護士VS当局(検事)という構図の話だけではない。慰安婦、南京事件、教科書、戦後補償、靖国参拝、憲法、原子力発電、自衛隊、在日韓国人の地方参政権、国旗国歌…。ありとあらゆる左翼的な党派利害や運動体の要求が次々持ち込まれてイデオロギーを背景にした裁判闘争が日夜繰り広げられる舞台でもある。裁判官も彼らにしゃべるだけしゃべらせており、彼らにとっては議席をとれなくても主張が許される絶好の場である。負けても負けても何度も同一構造、類似構造の訴訟が繰り返される。そして、やがて要求を通しお墨付きを与える裁判官が現れるのである。

 南京大虐殺も教科書検定批判もそうだった。国旗国歌訴訟などは現在進行形で、最近では永住外国人に対する参政権もそうだった。戦後の多くの虚構にお墨付きを与えたのは裁判所だったことを裁判官自身、どれだけ自覚しているのだろう。

(安藤慶太・社会部専門職)

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